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BEMOとFO [古い旅のアルバム]

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1985年夏。スイス。ディゼンティス。Exレーティッシェ鉄道とFOの接続駅。

私の世代の電気機関車、といえばだいたいがこのイメージ。この時代の子供に電気機関車の絵を書かせるとだいたいがオープンデッキ付きの二つパンタの車体となる。日本でいえばE F 5 7、E F58(旧)、などに代表される。それ以後、日本ではオープンデッキの機関車は次第に見られなくなっていったが、1985年当時にあってもスイスではまだまだ十分現役で働いていた。これを見てずいぶん懐かしい気がしたのを覚えている。これまた日本ではあり得ないスイス独特の光景だが、この機関車、手荷物室も備えていて、荷物がない時はドアは開放したまま、平気で走っているのをよく見かけた。いくらスイスでも空調のない運転室は暑くてたまらないからであろう。ちなみに「氷河急行」もこの時代は空調などはなく、窓を開けて写真を撮れるのはすこぶる良かった。

クールとサンモーリッツから来た二両の食堂車付きの長大編成の「氷河急行」はここ、ディゼンティスで二列車に分割される。このオープンデッキ付きのラック専用の機関車がそれぞれ先頭に立ち、団子運転でアンデルマットに向かう。何しろ複雑で時間のかかる列車の組み替えだが、観光客はホームにおりて組換え作業をのんびり楽しんで見ている。「危険ですからホームからお下がり下さい」など余計なアナウンスはもちろん一切ない。静謐である。

それ以来、この機関車欲しいなあ、と切望していたが、当時BEMOからはまだ発売されていなくて、実際手にしたのはさらに数年たってからのことであった。ただ、この当時のBEMOはまだ塗装の質があまり良くなく、手垢がじきにつき、印刷も消えてしまうことが多かった。それでこのモデルは現在もまるで腫れ物に触るように扱っている。同型の機関車はBVZ(ツェルマット鉄道)でも使われていた。この懐かしい二桁番号のオープンデッキ機関車ももう退役して久しい。

食堂車のないTEE<Lemano> [古い旅のアルバム]

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(地中海沿岸を走るLemano 1963年7月、古い写真ですがクリックするともう少し鮮明に見えます)
ミラノからミュンヘンまで乗り入れていた、初代TEE、<Mediolanum>は2両永久連結のディーゼル動車。これを4両に増結したのが、ミラノとジェノヴァを結ぶTEE Lemano。TEEとして製造された車両にもかかわらず食堂車がない、というのはめずらしいと思う。運転距離が比較的短い、ということもあるが、それだけの需要が見込めなかった、ということでもあろう。ただ、最小限の供食サービスはあって、食事はギャレーから各客席まで運んでくれた。味は覚えていないくらいだったから、それほどのことはなかったのであろう。Mediolanum、Lemano両方とも乗車したのだが、まあ、一番さえないTEE、という印象は持った。ただ、国境で1時間もパスコントロールのために時間が費やされたのが当たり前だった当時としては、TEEなので乗車時にパスポートの検査を済ませるので、国境駅停車時間がごく短いから、高額の料金を払ってもそれなりの利用価値はあったといえる。ご覧の通り、夏でも冷房の設備さえない。

これは当然モデル化されていて(ROCO?)ずいぶん前から注目していたのだが、残念ながら直流であることと、実車どおりの縮尺のため、うちのレイアウトに乗りそうにない、というのであきらめていたものである。私の記憶ではMediolanumはこののち、たしかVT11.5に置き換わることになる。

ウイーン少年合唱団の夏 [古い旅のアルバム]

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地名がどうしても思い出せない。オーストリアの西の山奥、ほとんどイタリアの国境と接するくらいの小さな村に、ウイーン少年合唱団が夏の間合宿をする、ペンションといっていいのかどうかわからないが、一般の宿泊客も泊まれるかなり大きな建物がある。夏の間、ここで合唱団の訓練をするのだが、いかにも山奥の野趣あふれる場所での練習風景が見られる。

属啓成先生という、もう亡くなられた音楽評論家の発案で、その風景を見学に出かけた。ペンションでもあるので、ヨーロッパ人にはごく普通の休暇を一週間単位でここで過ごしている客も多い。そこでは宿泊客と合唱団の子供達との交流がある。天気のいい日にはピアノを屋外に持ち出し、アルプスの山々を背景に、先生がピアノを弾きながら、生徒たちを指導している。また、日曜日にはミサも行われる。「天使の歌声」はこうして生まれるのだ。

客はその辺の岩山や野原に思い思いにたむろしながらそれを楽しんで見ている。あまりに不便なところなのでもう行くこともなかろうが、今もこの風景は変わることはないのであろう。相当詳しい地図を見ても思い当たる地名が見つからない。1961年夏。

Transalpin [古い旅のアルバム]

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この写真も相当古い。1960年、場所はWien Westbahnhof。ウイーンとスイスを結ぶ、今のRail-jetの先祖とでもいうべき「Transalpin」。私が留学直後始めてウイーンを見物に訪れ、ミュンヘンへの帰途乗車したもの。もちろんいくら当時であってもミュンヘン直通の列車はたくさんあったが、全部機関車牽引で、日本のような電車列車は珍しかったので、まあザルツブルクで乗り換えればいい、と気楽に乗ってみた。乗ってからわかったのだが、この列車はスイス直通なのでザルツブルクを通りはするが、Hbfを通らない列車だった。でもまあなんとかなる、と思っていたが、ザルツブルクで降ろされたのは、ひどい田舎駅で何にもない。

当時まだドイツ語はほとんどできなかったけれど、何とかHbfへゆく道を人に聞き、バスを見つけて中央駅にたどり着いた。今ならミュンヘン直通のRail-jetもあろうし、電車列車ももはやヨーロッパでも珍しくも何ともない。電車列車のスタイルとしてはごく平凡だからメルクリンからはもちろん、この電車が模型になったのは私は見たことがない。

Mitropaの寝台車 [古い旅のアルバム]

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フィルムの写真というのはやはり不便なもので、きちんと撮ったつもりでもその場で確認できないことである。少々露出不足だがこの写真は1961年ベルリンに住む友人を訪ねた帰り、ベルリンーミュンヘン間で利用したMitropaの寝台車。これは翌朝、ミュンヘンに到着した時撮影したもの。当時はベルリンはZoo駅が遠距離列車の発着駅となっていた。私はもともとハザで帰るつもりだったのが、目の前にいたちょっと古ぼけたこのMitropa寝台車の「Betten Frei」(空きベットあり)の表示を見て急に乗って見る気になった。明らかにこれは東ドイツの車両ではないか、それも体験して見たいという好奇心が働いたことも付け加えたい。

ご承知の方も多いと思うが、ヨーロッパの寝台車は車両も設備も同じで、寝台を2段にするか、3段にするかで1等、2等の差が決まる。私は学生だから2等でいい、と車掌に告げたが、まあ今日は空いてるから、これで行きなさい、と2段ベットのコンパートメントをあてがってくれた。つまり一等客並みの扱いをしてくれたのだ。ベルリンからはどのみち東ドイツを通るルートをとるわけだが、あらかじめ乗車時にパスポートを見せるだけで、検問などはなかったように思う。ただ寝ていて、列車の揺れ具合から、あ、ここから西ドイツに入ったな、というのがわかるほど保線状態の差がはっきりと感じられたことをよく覚えている。やはり、痩せても枯れてもMitropa、内装は重厚な木製で、写真からは見にくいかもしれないけれど、この開け放たれたドアの車室側からも察せられよう。出来の悪い写真だが、こうして見ていると、まだこの年齢になっても時効になっていなくて公に話せない自分の当時のいろいろな思いがよみがえってくる。

1990年代BLSの機関車 [古い旅のアルバム]

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軽量客車全盛の時代のSBBの客車をBLSの旧型機が牽引している。場所はSBBの接続駅Brig。460型に取り変わる以前、10年近く前の映像。いまではSBBと同じタイプの機関車が多いが、この時代、そしてこのスタイルはBLS独自のもので、B-B型、C-C型、B-B-B-B型など共通のデザインに基づくもの。前部左側に乗降用のドア、ドアにつけられたライト類、逆U字型の手すり、一個パンタ、など他で見られない独特のものなのだが、少しマイナーな機関車なせいかメルクリンでは製品化されておらず、拙宅にもROCOのものがあるだけだが、地味ではあるものの、よくよくみるとなかなか味のある顔つきをしている。

この時期、客車は少しづつ26メーターの標準車がBLSにも導入され、機関車ともどもSBBと同じ車両になったので、ある意味面白さは薄れてきた。2両永久連結の200型など面白いと思うのだが、メルクリンで製品化されないのは惜しい。ノルウエーやスエーデンの永久連結の大型機関車が発売されているのだから、これなど同様の価値があると思うのだが。。。

古代カルタゴ帝国(1) [古い旅のアルバム]

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1981年、ヨーロッパに出かけたついでにチュニジアに行ってみる気になった。と言うより、一度は行ってみたいと思っていた国である。私は昔は大の歴史嫌い。でも音楽を専門にしていると、自分の弾いている作曲家がどんな時代のどんな国にどんな環境で育ったか、とその時代の歴史を調べているうちに、だんだん西洋史を逆にたどることになり、ローマ時代まで行くと、もう我々の仕事とは関係なくなってしまう。それでもなおローマ史をたどって行くうち、3回のポエニ戦争で滅びた古代カルタゴ帝国を訪れてみたくなった。概して私は「勝った」国より「負けた」国の方の「なぜ負けたか」に興味がある。詳しくは書かないが、ローマと戦って滅びたカルタゴ帝国の歴史がなにか今の日本を暗示しているようで、経済一辺倒の国がどのような末路をたどったか、を見ておくのも無駄ではなかろう、と思ったからである。チュニジアはアフリカの地中海側の先端に位置し、昔フランスの植民地だった。シチリア島の先端から目と鼻の先にある。映画などで見る古代戦争はやはりどこか嘘っぽいが 、現地を見、石を丸く削った大砲の玉などゴロゴロしているのを見る方が実感がわく。

例によってホテルも予約せず、アラビア語とフランス語しか通じない国に突然、妻と二人、チュニス空港に降り立ったのである。だいぶん苦労はしたが、チュニジアから北西の郊外に行ったところに地中海を一望できるシ・ディ・ブ・サイードという素晴らしい観光ホテルを見つけることが出来た。ここに5日間ばかり逗留し、ここを拠点にさまざまなポエニ戦争関係の史跡を見て歩いた。もとより私は「鉄」であるからそれもおろそかにはしていない。この映像はその時の1枚。チュニス市内から、観光地シ・ディ・ブ・サイードまで約25キロ程度であろうか、郊外電車が出ていて、これを利用して史跡を見て回った。駅の名前にすら、ハンニバル何たら(アラビア語でほとんど読めない)という英雄の名前を冠した駅の名前がたくさんある。いまもこの国が古代カルタゴ帝国であり、チュニジア国民がハンニバルを誇りとしていることがよくわかる。ローマはこの国を徹底的に2度と立ち上がれないよう、町中に塩をいく層にも焼き払った廃墟の上に圧接した。チュニスはいま治安が混沌としていて旅行は怖い。いい時に行っておいたと思っている。

鉄道についてはそう見るべきものもないので、この旅行では付け足しなのである。付け足しにしてはずいぶんと電車の写真が残っている。このチュニジアン・ブルーのモダンなZパンタつきの電車はM・A・N製の固定2両編成。前面の窓が非対称で少し左寄りになっているあたり、昔のニッサン・キューブの後ろ姿を思い出さないものでもない。ものすごく暑い国だが冷房はなし。駅のあたりの樹木がいかにも南国らしい。プラットフォームも日本と同じで違和感がない。

ちなみに、チュニジアは暑いアフリカといっても緯度からすれば東京と似たような位置にある。

初代マイカー [古い旅のアルバム]

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この年にいたるまでずいぶん色々な車を経験してきたが、これは私が名実ともに所有した初代のマイカー。よくまあ、バッテリーが上がったり、ファンベルトがきれたり、最後にはエンジンそのものがおシャカになったり、とさんざん泣かされた車だがそれだけに印象も強烈で、今となってはなつかしい。1956年型のカブトムシである。この年代の外観的特徴としてフロント・リアグラスが小さい。もう一つの特徴は、ウインカーが古い映画で見られるような機械式で腕木が横に飛び出るシステム。さすがにこれは時代遅れとなり、途中で法規が変って現在のようなテールランプの中に黄色の方向指示ランプが組み込まれる方式に改造が義務付けられた。もう一つ、今では信じ難い話だが燃料計がない。満タンにした時を覚えていないと突然ガス欠になる!

当時、VWは一つのエンジンの耐久距離が10万キロ、とも言われていた。ちょうど10万キロのところで予定通り(?)エンジンがダウンした。旅行中であり、デットモルトという町でエンジンを載せ替えるため工場入りして、1週間滞在を余儀なくされた。

だが、これはタダの中古のカブトムシではない。初代の所有者が指揮者の小沢征爾さん、2代目が作曲家の石井真木さん、と続いて3代目の所有者が私、という因縁のあるモノ。それともう1台、一時的ではあったが、指揮者の岩城宏之さんの車もまかされていた。「バッテリーが上がるからオレのいないあいだ、君に使っていてもらいたい、ブッツケるのは自由。おれ、ちょっと通れそうにないと思うところでもむりやり、ガリガリって通っちゃうんだ」というだけあっていたるところ傷だらけの黒のカブトムシ。見てくれは悪いがこの方が車自体の状態は故障は少なく、マシだったようである。

この映像はミュンヘンから200キロくらい離れた、私の家主のいなかの親戚を訪ねたときのもの。だいぶんミュンヘンの方言にも慣れた、と思っていたが、ここの田舎の言葉は私にはほとんど理解できなかったが、同行した家族がちゃんとしたドイツ語に通訳してくれたから会話は辛うじて通じた。


車両航送 [古い旅のアルバム]

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「車両航送」という言葉自体「死語」はおろか、「歴史上」の言葉となっている。日本では50年以上も昔、青森行きの夜行急行が1本しかなかった時代、上野駅に待機中の青森行きの列車の最後尾に、ただ1両「札幌行」のサボをつけた白帯の「一等寝台車」(3等級時代である!)を、なにかもう、どこか遠くの外国へでもいくような夢の客車、といったまなざしで眺めたものだ。この車両ともう1両、手荷物車だけが青森から青函連絡船に乗せられて函館に渡る。これが私が日本で見た最後の航送車両となった。

ヨーロッパでは少なくなりつつあるとはいえ、「車両航送」はいまもまだ生きている(であろう)。イタリア本土からシチリアにわたるフェリーに列車ごと積み込んで、メッシーナ海峡を渡り、対岸のメッシーナで列車はパレルモとカターニャの2方向に分かれて直通運転をしている。私たち家族はレンタカーを積んで、フェリーに乗り込んだが、この写真はその際に見た「航送風景」。記憶は正確ではないかも知れないが、当時の時刻表の記憶ではたしか、ナポリとローマからそれぞれ一日一本づつ、シチリア直通の列車があったようである。

写真は私たちはすでにフェリーの甲板上にいて、そこから船の中に吸い込まれてゆくFSの列車をとらえた一瞬。列車に乗っている乗客もいっせいに窓から外を眺めていかにも楽しそう。一日に何本もない直通車両の航送風景をたまたま見られたのはラッキーだったのかも知れない。1987年夏、イタリア半島の長靴の先端の港町、レッジョ・ディ・カラブリアの埠頭で。

Friedrich Strasse [古い旅のアルバム]

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ちょっとこわいけれど、懐かしのフリードリヒ・シュトラーセです。1991年現在の情景。冷戦時代のベルリンから見ると夢のようです。もう現在では電化しているのだと思いますが、この当時はこんな具合でした。Rheingold用の塗装の違う一等車、それを牽引するのが「リュドミラ」。どこ行きかわかりませんが、ディーゼル牽引であるところを見ると、やはりワイマール、ドレスデンあたりへ行くICでしょうか。「リュドミラ」もまだまだ現役で活躍しているみたいで、スピードさえ要求されなければ、結構頑丈に作られていて、まだ非電化区間では無くてはならない存在のようです。ニックネームのご本人、プーチン大統領の奥さんだったリュドミラさん、離婚してもなおこの機関車で名声を残す。
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